據(jù)說(shuō)世界上有300萬(wàn)外國(guó)人在學(xué)習(xí)日語(yǔ)。日語(yǔ)有平假名,、漢字,、片假名三種文字,因?yàn)槲覀兪褂脻h字,,所以在文字方面對(duì)于我們來(lái)說(shuō)并不是很難,,但是對(duì)于一些使用歐洲語(yǔ)言體系的外國(guó)人來(lái)說(shuō),漢字就是一道難關(guān)了,。那么具體是哪些方面比較難呢,?今天就來(lái)一起看一看對(duì)于正在學(xué)日語(yǔ)的外國(guó)人(、韓國(guó)等亞洲國(guó)家除外)來(lái)說(shuō),,“日語(yǔ)難”的七大理由吧,,也許會(huì)給你的日語(yǔ)學(xué)習(xí)帶來(lái)啟發(fā)。
漢字が覚えられない 記不住漢字
漢字は外國(guó)人にとって,、とても厄介な文字です,。私たち日本人が物書(shū)きを始めたころから少しずつ覚えてきた日本語(yǔ)の漢字。漢字の溢れている環(huán)境で育ったから,、日本人は初めて見(jiàn)る字でも何となく読み方を言い當(dāng)てられたり,、意味を推測(cè)できたりします。
日本人平時(shí)使用慣了的漢字對(duì)于外國(guó)人(人除外)來(lái)說(shuō),,卻是很棘手的一種文字,。日語(yǔ)漢字是我們?nèi)毡救嗽趯W(xué)寫(xiě)東西的時(shí)候就開(kāi)始慢慢在學(xué)習(xí)了。因?yàn)樗诘沫h(huán)境離不開(kāi)漢字,,所以有些字就算是一,、次見(jiàn)到,,也多少能猜中讀法或者意思,。
しかし、この漢字の苦労を漢字のない環(huán)境で育った外國(guó)人がゼロから始めるとなるとかなり大変なようです,。日本在?。保澳辘瓮鈬?guó)人でも、知らない土地に行くと電車に乗れなかったり,、街の看板や標(biāo)識(shí)が読めなくて困ったりするそうです,。
但是,對(duì)于不在漢字環(huán)境下長(zhǎng)大的外國(guó)人來(lái)說(shuō),,從零開(kāi)始學(xué)似乎需要付出非同一般的努力,。據(jù)說(shuō),就連在日本住了十年的外國(guó)人,,要是去了不熟悉的地方,,也會(huì)有無(wú)法乘坐電車,、無(wú)法讀懂街道的招牌及標(biāo)示等頭疼事兒。
アルファベット圏の外國(guó)人いわく,、漢字は複雑な絵のようなもの,。ひとつひとつの部首を覚え、その意味を知り,、書(shū)き順にも注意する漢字は,、外國(guó)人にとってはとても難解な文字だそうです。
一直接觸字母的外國(guó)人說(shuō),,漢字就像是復(fù)雜的畫(huà),。對(duì)于他們而言,漢字需要一個(gè)個(gè)去記住部首,,理解意思,,還要注意筆順,是相當(dāng)難懂的一種文字,。
直訳できない表現(xiàn)が多い 很多表達(dá)不能直譯
日本語(yǔ)には英語(yǔ)やラテン語(yǔ)などに直訳できない表現(xiàn)がたくさんあります,。「よろしくお願(yuàn)いします」,、「恐れ入ります」,、「お邪魔します」、「お疲れ様です」などは全て直訳しようとするとおかしな意味になってしまいます,。
日語(yǔ)中有很多表達(dá)無(wú)法直譯成英語(yǔ)或者拉丁語(yǔ),。要是把「よろしくお願(yuàn)いします」、「恐れ入ります」,、「お邪魔します」,、「お疲れ様です」等句子全部直譯成本國(guó)語(yǔ)言,會(huì)變得很奇怪,。
これらの言葉は日本の文化や習(xí)慣を反映しているもので,、「日本語(yǔ)の教科書(shū)」でいくらその用法を勉強(qiáng)しても、実際にその場(chǎng)面を経験しないと使い方がいまいち理解できないようです,。
這些話都反映了日本文化以及習(xí)慣,,再怎么從書(shū)上學(xué)習(xí)用法,不實(shí)際經(jīng)歷下那種場(chǎng)面是無(wú)法真正理解的,。
つまり,、これら直訳できないフレーズをマスターするには日本での日本人との生活が必要となるということ。日本人が実際に使っているのを聞いて,、自然と身につけるそうです,。
也就是說(shuō),要想熟練掌握這些無(wú)法直譯的句子,需要在日本和日本人一起實(shí)際生活下,,親身體會(huì)下日本人是怎么使用的,,應(yīng)該就能自然而然的掌握了。
敬語(yǔ)が使えない 不會(huì)用敬語(yǔ)日本語(yǔ)の厄介な點(diǎn)で,、外國(guó)人が必ず挙げるのがこの“敬語(yǔ)”です,。英語(yǔ)やラテン語(yǔ)にも“丁寧な言い方”や、“ややかしこまった言い方”というのはありますが,、日本語(yǔ)のような敬語(yǔ)の概念は存在しません,。
“敬語(yǔ)”是外國(guó)人說(shuō)到日語(yǔ)難學(xué)時(shí)必提的一點(diǎn)。英語(yǔ)以及拉丁語(yǔ)中也有“禮貌的說(shuō)法”“略恭敬的表達(dá)”,,但卻沒(méi)有日語(yǔ)中的“敬語(yǔ)”這種概念,。
日本人でも、尊敬語(yǔ)と謙譲語(yǔ)と丁寧語(yǔ)を正しく使い分けて自然に話すのは難しいですよね,。
即使是日本人,,要分清尊敬語(yǔ)、謙讓語(yǔ)及禮貌用語(yǔ)并且自然的表達(dá)出來(lái),,也是非常難的對(duì)吧,。
外國(guó)人からすると、「行きます」と言われたら理解できるけど,、「お伺いいたします」と言われたら何を言ってるのかわからなくなってしまいます,。同じ意味として結(jié)びつけることができず、全く別の意味に感じてしまうそうです,。
對(duì)于外國(guó)人來(lái)說(shuō),,聽(tīng)到“行きます(我去)”是能理解的,但是聽(tīng)到“お伺いいたします(鄙人登門(mén)拜訪)”,,就不知道別人想要表達(dá)啥了,。據(jù)說(shuō)他們很難將這倆用一個(gè)意思聯(lián)系在一起,覺(jué)得完全是不一樣的意思,。
語(yǔ)尾のニュアンスが摑めない 抓不到句尾的微妙感覺(jué)主語(yǔ),、動(dòng)詞、目的語(yǔ)を必要とする英語(yǔ)などに比べ,、日本語(yǔ)は非常にあいまいな言語(yǔ)です,。それだけに,、言葉の“ニュアンス”が非常に重要視されると日本語(yǔ)學(xué)習(xí)中の外國(guó)人は言います,。特に語(yǔ)尾に、その人の個(gè)性や性格,、感情などが含まれている場(chǎng)合が多く,、このニュアンスを摑むのに苦労するそうです。
和主語(yǔ)、動(dòng)詞,、賓語(yǔ)為必要組成成分的英語(yǔ)相比,,日語(yǔ)是種非常含糊的語(yǔ)言。外國(guó)學(xué)習(xí)者表示,,正因?yàn)槿绱?,語(yǔ)言的微妙差異才非常被。特別是在句末,,很多時(shí)候反映出了這個(gè)人的個(gè)性,、性格以及情感,因此摸清這種感覺(jué)似乎頗費(fèi)功夫,。
例えば日本人に“わかってる”と言われた場(chǎng)合でも,、「わかってるよ」、「わかってるけど」,、「わかってるもん」などと色んなバリエーションがあり,、それぞれ別のニュアンスがあることを摑むには経験と時(shí)間がかかるそうです。こういった語(yǔ)尾のバリエーションは英語(yǔ)にはなく,、日本語(yǔ)のテキストには載っていない日本語(yǔ)の難しさだと言われています,。
比如聽(tīng)到日本人說(shuō)“わかってる(明白)”的時(shí)候,會(huì)有以下幾種可能性——“わかってるよ”“わかってるけど”“わかってるもん”,,摸清個(gè)中不同需要花費(fèi)時(shí)間積累經(jīng)驗(yàn),。英語(yǔ)里沒(méi)有這種句末的變化,可以說(shuō)是日語(yǔ)教科書(shū)上所沒(méi)有的難點(diǎn),。
和製外國(guó)語(yǔ)が厄介 和式外語(yǔ)難對(duì)付日本語(yǔ)には多くの“日本語(yǔ)になっちゃた外國(guó)の言葉”があります,。和製外國(guó)語(yǔ)は日本語(yǔ)を勉強(qiáng)する外國(guó)人にとってはとても厄介なものだそうです。厄介な理由としては,、正しい意味のものと日本語(yǔ)での意味(間違ったもの)の両方が存在することからきます,。
日語(yǔ)中有很多“變成了日語(yǔ)的外語(yǔ)”。據(jù)說(shuō)和式外語(yǔ)對(duì)于學(xué)日語(yǔ)的外國(guó)人來(lái)說(shuō)很難對(duì)付,,理由是——這些單詞中既有忠于外語(yǔ)原意的,,也有意思隨了日本的(即弄錯(cuò)了原意的)。
仮に日本で日常的に使われている英語(yǔ)が,、全て間違っているとすればゼロから日本での英語(yǔ)を?qū)Wべばいいだけの話ですが,、正しい使い方をしている場(chǎng)合もあるので混亂してしまうようです。
假如在日本使用著的日常英語(yǔ)全都是錯(cuò)的,,那事情就簡(jiǎn)單了,,從零開(kāi)始重新學(xué)便是,可問(wèn)題在于偏偏也有忠于本身意思的單詞,,所以會(huì)很混亂,。
これは日本語(yǔ)の“神風(fēng)”と、英語(yǔ)での“kamikaze”の意味の違いのようなものです。意味にずれが生じるのは外來(lái)語(yǔ)取り入れの過(guò)程で他にも起きることですが,、こういった言葉が多ければ混亂するのも無(wú)理がないですね,。
這就像日語(yǔ)中的“神風(fēng)”vs英語(yǔ)中的“kamikaze”一樣。在引入外來(lái)語(yǔ)的時(shí)候意思會(huì)發(fā)生變化,,這也是正常的,,但是這樣的日語(yǔ)越多就會(huì)越容易混亂,也是理所當(dāng)然的,。
數(shù)え方がころころ変わる 數(shù)詞量詞變化很多日本語(yǔ)はものの數(shù)え方がころころ変わります,。ざるそばは1枚、たらこは1腹,、キャベツは1玉など,、それぞれの物によって數(shù)え方を覚えなければなりません。
日語(yǔ)中數(shù)詞量詞會(huì)有各種變化,。蕎麥面是“1枚”,,鱈魚(yú)子是“1腹”,卷心菜是“1玉”,,學(xué)習(xí)者要根據(jù)不同的對(duì)象去記憶不同的數(shù)法,。
日本では幼稚園からものの數(shù)え方を少しずつ學(xué)び、大人になる頃には考えずとも自然と數(shù)えられるようになりますが,、日本語(yǔ)を勉強(qiáng)する外國(guó)人はこれもゼロから始めなければなりません,。全部「○○つ」と言うようにしている外國(guó)人もいるそうです。
在日本,,大家是從幼兒園的時(shí)候開(kāi)始一點(diǎn)點(diǎn)學(xué)數(shù)數(shù),,長(zhǎng)大后不假思索就能數(shù)正確,而對(duì)于學(xué)習(xí)日語(yǔ)的外國(guó)人來(lái)說(shuō),,這又是個(gè)必須從零開(kāi)始的活兒,。據(jù)說(shuō)也有的外國(guó)人數(shù)數(shù)時(shí)全都用“○○つ”來(lái)代替。
確かに日本語(yǔ)には冠詞の使い分けや,、男性?女性名詞の區(qū)分などがありませんが,、ものひとつひとつの數(shù)え方を全てきちんと覚えるとなると膨大な量になりますね。
日語(yǔ)中沒(méi)有冠詞的區(qū)別使用,,也沒(méi)有男女名詞的區(qū)別使用,,這是事實(shí),但數(shù)數(shù)的數(shù)量詞要一個(gè)個(gè)去記清,,工作量確實(shí)很大啊,。
助詞の使い方がイマイチわからない 助詞的用法總覺(jué)得弄不太明白
日本語(yǔ)の學(xué)習(xí)を始めて間もない段階では、“つなぐ言葉”が難しいという人が多いです,?!袱长螆?chǎng)合は“が”,?“は”,?」,、「“に”と“で”はどうやって使い分ける?」など,、私もこれまでに日本語(yǔ)學(xué)習(xí)中の外國(guó)人にたくさん質(zhì)問(wèn)されました,。
很多人在開(kāi)始學(xué)習(xí)日語(yǔ)后不久會(huì)覺(jué)得“連接詞”很難。至今為止,,我也經(jīng)常被外國(guó)學(xué)習(xí)者問(wèn),,比如,“這種情況下要用が,?還是は,?”,“に和で怎么區(qū)分使用,?”,。
助詞の厄介なところは、質(zhì)問(wèn)されてもこれといった明確な答えがだせないところです,。例えば,、「私が思うに~です」を「私“は”思うに~です」とは言わないと説明しても、「なぜおかしいのか,?」と聞かれたら答えられません,。
助詞麻煩的地方就在于,就算被問(wèn)到用法,,也答不出個(gè)所以然來(lái),。比如,向他們解釋“私が思うに~です”不能說(shuō)成“私‘は’思うに~です”,,要是被問(wèn)到“為什么那樣說(shuō)會(huì)奇怪,?”,我們也回答不上來(lái),。
助詞の自然な使い方は日本人との普段の會(huì)話の中から,、動(dòng)詞とセットにして自然に覚えていくものだと私の旦那は言っています。
助詞的正確說(shuō)法是在和日本人對(duì)話中自然學(xué)會(huì)的,,而且要跟動(dòng)詞搭配記憶,,我的丈夫如是說(shuō)。